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レオポルド2世 (ベルギー王) : ミニ英和和英辞書
レオポルド2世 (ベルギー王)[れおぽるど2せい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

レオポルド2世 (ベルギー王) : ウィキペディア日本語版
レオポルド2世 (ベルギー王)[れおぽるど2せい]

レオポルド2世(、1835年4月9日 - 1909年12月17日)は、第2代ベルギー国王(在位:1865年 - 1909年)。
初代ベルギー国王レオポルド1世王太子として生まれ、1865年に父王の崩御に伴って即位、1909年の崩御まで在位した。レオポルド2世の治世の間、1884年までは、それ以降はが政権を担当していた。ベルギー経済は父王の代から引き続いて急速に成長を遂げていたが、労働者階級の社会不安も増していき、治世の後半にはが台頭したことで様々な社会改革が行われている。
即位前から植民地獲得に強い関心を持ち、世界各地を物色していたが、やがて列強がいまだ侵食していないコンゴに目を付け、コンゴ国際協会を創設してコンゴ探検を支援、先住民の部族長と条約を結ぶなどコンゴ支配の既成事実化に努めた。1884年のベルリン会議においてコンゴを私有地として統治することを列強から認められた(コンゴ自由国)。
コンゴにおける治世の初期は鉄道を敷設したり、アラブ人奴隷商人による奴隷狩りから黒人を守るなどその近代化に努めるものであったが、経営が赤字になってくると利益の確保を急ぎ、先住民を酷使して天然ゴムの生産増を図るようになった。イギリス人などから先住民に対する残虐行為を手厳しく批判され、1908年にはコンゴをベルギー国家に委譲する事を余儀なくされた(王の私領からベルギー植民地への転換)。
1909年に崩御した。嫡出子の男子がなかったため、王位は甥のアルベール1世が継いだ。
== 生涯 ==

=== 皇太子時代 ===

1835年4月9日にベルギー王国の首都ブリュッセルに初代ベルギー王レオポルド1世とその后ルイーズ・マリー(フランス王ルイ=フィリップ1世の娘)の間の次男として生まれる〔ベルギー王室公式サイト"The Belgian Monarchy" 〕〔世界伝記大事典(1981)第12巻 p.291-292〕。兄ルイ=フィリップは前年に夭折していたため、王太子となった〔世界伝記大事典(1981)第12巻 p.292〕。
弟にフィリップ王子(フランドル伯)、妹にシャルロッテ王女(メキシコ皇帝マクシミリアーノ1世皇后)がいる。またイギリス女王ヴィクトリアとその王配アルバートとは従姉弟の関係にあたる〔ワイントラウブ(1993) 下巻 p.334/522-523〕。
9歳のときにブラバント公(以降ベルギーの王位継承者に与えられる爵位となる)に叙された〔世界伝記大事典(1981)第12巻 p.292〕。
1853年8月にオーストリア大公・ハンガリー副王ヨーゼフ・アントンの娘マリー=アンリエット・ド・アブスブール=ロレーヌと結婚、彼女との間に3人の女子と1人の男子を儲けたが、男子レオポルドは9歳にして夭折している〔世界伝記大事典(1981)第12巻 p.292〕。当時のベルギーは女子の王位継承を認めていなかったので、長男レオポルドの薨去とともに直系の王位継承者を失った。
1855年上院議員となり、政界入りした〔。
ベルギーは1830年にオランダから独立したばかりの新興国であったが、父王レオポルド1世の立憲君主の枠を越えた強力な指導の下に、他の国に先駆けて1836年に鉄道を完成させ、飛躍的な経済発展を遂げていた〔デュモン(1997) p.65-71〕。それでも国土が狭く人口も少ないベルギーはヨーロッパの中では小国にすぎなかったが、レオポルド王太子はいつまでもベルギーをその立場に甘んじさせるつもりはなかった〔ルイス(2010)2巻 p.279〕。隣国オランダがコーヒーブームに乗って植民地ジャワから莫大な利益を吸い上げているのを見て、ベルギーにも植民地が不可欠と確信するようになったという〔宮本、松田(1997) p.332〕。
植民地を物色するために中近東北アフリカセイロン島などを旅行してまわった〔トウェイン(1968) p.32〕。帰国後、上院において植民地獲得を熱心に訴えたが、植民地に関心を持つ上院議員はあまりいなかったという。グアテマラ植民地化の失敗以来、ベルギー国民も議会も帝国主義政策を支持していなかったのである〔デュモン(1997) p.73〕。
それでも王太子の植民地への熱意は消えず、1860年には「外に向かって膨張すべき時期が来ている。もはや最良の条件 ―我が国より冒険的な国々によってすでに奪われてしまった― を待っているべき時ではない。」と語っている〔トウェイン(1968) p.32〕。ベルギーが植民地化できる可能性のある場所を手当たり次第に物色し、1865年には「清か日本への遠征が成功すればベルギーは巨大な帝国となるだろう。人間が同じ人間を搾取することは許されないが、ヨーロッパの出現を東洋が救済と考えないと誰が言えるだろうか」と語り、極東の植民地化にも関心を示している〔トウェイン(1968) p.33〕〔宮本、松田(1997) p.332〕。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「レオポルド2世 (ベルギー王)」の詳細全文を読む




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